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ども、ペスです。
いよいよ今回が今年最後のメルマガとなります。
もちろん来年以降もこのメルマガは続くのですが、
新しい表現方法はないものかと、現在模索中です。
来年は文章に加えて、できれば音声や動画なんかも
配れたらいいなー、とか思ったり思わなかったり。
優柔不断ばんざーい。
こういうテキトーな奴ではありますが(笑)これからも
気長に付き合って頂けたら嬉しいです。
んじゃ、締めのメルマガ、いってみよう!!
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目標の形而上学 〜神が与えし目標〜
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毎年この時期になると世間では「来年はどうするか」的な話題が
増えてきます。
今年はこうだったけど、来年はああしよう。
まだこうやって反省をしているならいい方だと思うのですが、
多くの人はこれすらせずに忘年会やら新年会やらで1年間の
大切な経験を水に流してしまっているような気がします。
もちろん来年も余裕で売り上げが右肩上がりで伸びていく
自信と根拠があるなら問題ないと思うのですが、一般に、
この時期にバカ騒ぎしている人というのは、僕の偏見かも
しれないですが、どうもそういう余裕のある人には
見えません。
どちらかと言えば、そんな余裕のない状況だからこそ、
その現実から目を背けるために、飲んで騒いでいるように
見えます。
僕もこの時期だけは付き合いで1,2回程度、忘年会や新年会と
呼ばれるものに参加することがあるのですが、そういう場では
(いや、そういう場でなくても)まず「まともな話」が出てきません。
これが個人的にはいつも虚しいです。
別にそれは哲学や芸術の小難しい話をしろと言っているワケではなく、
自分たちの生活に直結する話、つまり税金のこととか雇用のこととか
金融危機のことぐらいは出てきてもいいんじゃないか、ってことです。
酒を飲みながらでもいい。
バカな話を交えながらでもいい。
それでもいいから少しは現実を見つめようよ、と。
そう毎度毎度思ってしまうのです。
こうして見たくないものからとことん目を背けている割には、
みんな性懲りもなく毎年新年の抱負だけはちゃっかり(?)
立てたり立てさせられたりします。
今年こそは痩せる。
今年こそは脱サラする。
未来の自分に興味があるのは結構なことですが、いつの時代も
その抱負を達成する人というのは少ないものです。
それは僕がぐちゃぐちゃ詳細に説明するまでもなく、
今言ったことや周りの人間の様子を見れば明らかでしょう。
けれども、世間の人は飽きもせずに毎年毎年同じような抱負を
同じように立てて「今年もダメだったなー」とか同じようなことを
言いながら一生を終えていくワケです。
そんな人生もそれはそれでアリなのかもしれませんが、一生に
1回ぐらいは「目標」というものに真摯に向き合ってみては
どうだろうか、というのが僕の個人的な意見です。
こういう意見の人は僕だけではないようで、これまた世間には
目標達成法なるものをまとめた本がそれなりの数売られていたり
します。
そういう本がベストセラーになってしまうのは仕方ないとして、
ベストセラーになるほど売れた割には、周りに目標を達成できて
いる人が少ない気がするのは、僕の気のせいなのでしょうか。
それとも、もしかして僕が知らないだけで、みんな黙って成功
しちゃっているのでしょうか。
それならちょっぴり寂しいと同時に非常に喜ばしいことですが、
今はそうではないと仮定しておきます。
となると、目標を達成できる人は依然として少ないことになるワケで、
それはなぜなのかを考えたくなるのが子供心というヤツです。
どうして目標は達成できないのか。
どうすれば目標は達成できるのか。
前書きがやたら長くなりましたが、今回はそんなことを徒然と
考えていきます。
そもそも僕らはなぜ目標を立てるのでしょうか?
目標なんて立てなくても死にはしないし、そんなものなくても
普通に生きていけるのに、どうして目標が必要なのか。
ある人はこう言うかもしれません。
ゴール(目標)がなければスタートできないからだ。
しかし、僕らはゴールを決める以前からずっと走り続けています。
どこに向かっているかは明確ではないかもしれませんが、人生という
レースは既にスタートしてしまっている。
となると「ゴールがなければスタートできない」という意見は僕らの
現実と噛み合いません。
この「スタート」が「ゴール(目標)に向かい始める」という意味で
あれば、その意見は確かに正しいことになりますが、それなら
スタートよりも「方向転換」と言った方がしっくりくる気もします。
僕らの人生は生まれた瞬間がスタートであり、それ以降は死ぬまで
ずっと過程でしかないのです。
また別の人はこう言うかもしれません。
ゴール(目標)がなければどこに向かって走ればいいか分からない
からだ。
本当にそうでしょうか?
もしそうだとしたら、僕らは生まれた瞬間から何かしらの「目標」を
自分で決めておかなければならない、ということになります。
ですが、僕らは自覚的か無自覚的かは人それぞれだとしても、
常に何かに向かって走っているのですから、どこに向かっていいか
分からないというのは、僕らの行動と矛盾しています。
マラソンのゴールは走り出してから決まるのでしょうか?
僕はそんなスポーツを見たことがありません。
こうなると疑問になってくるのが「目標」そのものの存在です。
今は「なぜ目標を立てるのか?」を考えていたワケですが、
それは目標を立てることが前提にあります。
目標は立てるものだ、目標は立てなくてはいけない、でもなぜ
立てなきゃいけないんだ?というのが今考えていたことです。
しかしそれは本当に必要なのだろうか、と問うてみると新しい道が
見えてこないでしょうか?
もし僕らに「目標」が必要ないとしたら、世の中に出回っている本で
言われているようなことは、すべてウソとは言わないまでも、すべて
空虚なものになってしまいます。
先ほども言ったように、僕らは自分が自分だと認識する以前から既に
スタートを切っています。
どこに向かっているかを自覚している人は非常に少ないですが、
それでも全員がどこかに向かって走っている。
つまり、世間で言われるところの「目標」を持たずに大よその
(少なく見積もっても5〜10年以上の)人生を走ってきたワケです。
なのにどうして世間では「目標を立てるのが当たり前」みたいな
空気があるのでしょう?
これについての意見も色々あるでしょうが、代表的な意見は
こういうもののように思います。
目標がないよりも、目標がある方が今やるべきことが明確になり、
人生をより有意義にできるからだ。
仮にこれが100%と正しいとしましょう。
だとしたら、哲学も数学も物理学も生物学も考古学も歴史学も
プログラムの知識も料理の知識もすべて「ある方がより人生を
有意義に」できるはずですから、それは「目標」に限ったことでは
ないことになります。
目標が無ければそれらを学ぶことができないというのであれば
納得もいきますが、別に目標がない人でも数学がひたすら好きで
勉強している人は山ほどいるし、僕だって別に哲学的に達成したい
目標があって勉強しているワケではありません。
その他の分野についても然りです。
百歩譲って哲学や数学は「目標」に対して優位性が劣るとしても、
料理や経理や自分が関わる専門分野の知識などは、実際のところ
「目標」よりも優先されることだと思います。
より現実的なことを言うならば、新年の抱負を考えている時間を
使って、もっと他の勉強をした方が給料は上がるかもしれない
ワケです。
それを差し置いて、どうしてそれらの中で達成されもしない
「目標」だけが特別扱いされなければならないのでしょう?
そう考えていくと「目標」それ自体の必然性や優位性はどこにも
無くなってしまうのです。
「今やるべきことが明確になる」という点は重要な視点なのですが、
ここで言っている「目標」から導かれる「今やるべきこと」には実は
あまり意味がありません。
その理由は後半に譲るとして、少なくとも「ないよりあった方がいい」
というしょーもない理由は何の根拠にもなり得ないのです。
では最後に、こう問うてみることにしましょう。
目標を立てることは可能なのか?と。
上の方で言ったように、僕らの人生は死ぬまで過程でしかありません。
始まりも終わりもない経過地点。
いつもそれが僕らの人生です。
であるならば、僕らが立てられる「目標」、すなわちゴールも結局は
人生の経過地点であり、本来的な意味でゴールには成り得ないことに
なります。
1億円稼ごうが、10キロ痩せようが、脱サラに成功しようが、
どれもこれも一時的な結果であり経過地点に過ぎません。
もちろん最初から「目標」を経過地点という意味で考えているなら
それを立てることは可能ですが、その場合その「目標」はもはや
目標では無く、次の「目標」のための経過地点としか呼べなくなる
ことになります。
その次の「目標」はまた次の次の「目標」のための経過地点となり、
さらに次の次の「目標」はまた次の次の次の・・・と、これを
繰り返していくとどこまでいっても「目標」は目標としての意味を
なさなくなる。
つまり僕らは究極的な意味で目標を立てることが出来ないのです。
目標を立てる必要もなければ、立てることもできないというのは
一般的な感覚からしたら、なんと虚しいことでしょう(苦笑)
あれほど世間では当たり前に大事とされていることが、これほど
まで空虚なことだとは、恐らくほとんどの人は気付いてないと
思います。
これまたみんなが知ってて黙ってるだけなら嬉しいんですが、
それはないということにしておきます。
ただ、本題はここからです。
僕がここまで大多数の目標という言葉にカッコを付けていたことに
お気付きでしょうか?
普通に読んでいたら何とも思わないかもしれませんが、それは
強調したいから付けていたのではなく、その「目標」を目標とは
違う意味で使っていたからなのです。
「目標」とは、ここまで説明したように、立てる必要もなければ、
立てることもできない空虚な目標(経過地点)のことです。
それに対して、ここからお話したいのは本当の目標、すなわち
“死”
に関するお話です。
正月前に縁起でもないことを、と思われたかもしれませんが、
縁起も何も僕らはいつだって死と隣り合わせに生きています。
それを口にしなかったり、まともに向き合わなかったり、一時的に
無自覚だったりしているだけで、誰もがその事実を抱えている。
世間一般には、それを口に出すことは暗黙のタブーのようになって
いますが、それは倫理上マズイからではなく、なぜだか分からない
けれども(いや、分かってるんだけども)、その言葉が一気に空気を
冷やしてしまうからです。
これは実際に言ってみればすぐに分かります。
飲み会の場で
「明日死ぬかもしれないのに、何下らないことやってんだよ!」
と言えば、間違いなくその場は冷めます。
こんなのはやる前から分かっているので、わざわざやる必要は
ないですが、とにかく僕らは遥か遠くにいる未来や過去とは
必死で向き合おうとするのに、すぐ隣にいる死とは“なぜか”
まともに向き合いたがらない性質を持っているワケです。
しかしながら、その死が僕らが唯一知りうる“確実な事実”で
あることは間違いありません。
僕らはいつか絶対に死ぬ。
そのことを知らない振りをしているたくさん人はいても、本当に
知らない人はこの世にはいないと思います。
そして、死んだらそこで人生が終わる、ということもみんな
知っているはずです。
死は人生におけるゲームオーバーであり、ゲームクリアです。
ゲームであればクリアするまで何度でもリセットできますが、
人生は一度きり。
つまり人生においてはゲームクリアが同時にゲームオーバーで、
ゲームオーバーが同時にゲームクリアなのです。
通常、僕らがゲームをしているときに目標としているのは、
そのゲームをクリア(完遂)することです。
最初のボスを倒し、次のボスを倒し、ラスボスを倒す。
そもそもボスがいるかどうかはゲームの内容にもよりますが、
何にせよ基本的には「やり遂げること」がゲーム自体の目標と
なっています。
だからこそ、それを完遂できずに途中でゲームオーバーになって
しまったら、悔しいとは思わないまでも、なんとなく頂けない
気持ちになってしまうワケです。
ですが、それでも終わってしまうのが人生です。
それは思いもよらない瞬間に終わることもあれば、ある程度
想定通りに終わることもあります。
いつどこで誰がどうなるかは分かりません。
ただ今言ったように、人生において終わり(ゲームオーバー)とは
同時にゲームクリア(目標達成)なのですから、
「死」=「人生の終わり」=「ゲームオーバー」=「目標達成」
ということであり、それは
「死」=「目標達成」
ということなのです。
僕らの目標は死んだときに達成されます。
それは「死=目標達成」なのだから当然ですが、だとしたら
僕らは死そのものを目標にせざるを得ないことになります。
なぜなら、どう足掻こうとそれ以外には目標(最終地点=ゴール)に
なることができないし、それ以前に、僕らがそれを目標として望む
望まないにかかわらず、最初からそれは揺るぎない定めとして僕らの
すぐ隣に存在しているからです。
この絶対的な事実を、誰にも変えられない目標を無視しているから、
多くの人は「空虚な目標」しか立てられないし、そんな「目標」を
“立ててしまう”のです。
では「死を目標にする」とは具体的にはどういうことなのか。
死にたくて死ぬ人が少数派であることを考えると、死を目標にする
というのは何だか変な表現のような気がします。
また人間は死ぬ気さえあればいつでも死ねるワケで、その意味で
目標達成は容易だとも言えます。
そんなものを目指して何になるのか。
素朴に考えれば、そう感じるかもしれません。
それは確かにごもっともで、僕自身も何も知らなければ普通に
そういう感情を抱いてしまうと思います。
しかし自分が死んだときのことをいくつか想像してみて下さい。
どれも「死んだ」という事実は同じかもしれませんが、「死にざま」や
「死に方」は違うのではないでしょうか?
何万人の人に凄く悔やまれながら死ぬ死に方と、誰にも悲しまれずに
ただ淡々と作業として終わってしまう死に方。
どちらの死に方が僕らにとって理想的でしょうか?
もしかしたら死んでしまえばみんな同じなんだから、そんなことを
考える意味はないと言い捨てる人もいるかもしれません。
ですが、それは違うと断言できます。
死を考えることに意味がないということは、目標そのものに
意味がないということであり、目標に意味がないのであれば、
それを達成するための過程である人生にも意味がないことになります。
要は、生きることに意味は無い、と言っているのと同じなのです。
ですから、死について考えることを否定した時点で、その人は自分の
生きる意味も同時に否定していることになり、結果として、自分で
自分自身の発言そのものすらをも否定していることになるのです。
この議論に首を突っ込むとなかなか抜け出せなくなるので今は
深くは語りませんが、簡単に言っておくと、人生には「意味が無い」
のではなく、人生の意味は生きている時点では、いや、ある意味では
永遠に「未確定」なのです。
何のために生きるのか。
その答えが人生の意味なワケですが、最終的にその人の人生が
何のためになったのかを判断“できる”のは本人ではなく、
残された人たちなのですから、そこに意味が生まれるのは、
本人の人生が終わってから、つまり死んでからになります。
すなわち、生きている本人が人生の意味を知ることは原理上
絶対にできないのです。
もっと言えば、残されている人たちも入れ替わり立ち替わり
死んで交代していくワケですから、ある人の人生の意味は
歴史的にどんどん変化していくことになります。
核が人類の希望であった時代もあれば、現代のように人類の
絶望になってしまうことがあるように、モノやコトの意味は
時代と共に変わる。
これ以上行くとさすがに脱線してしまうので、ここで強引に
話を戻しますが、人生の意味が死ぬまで未確定である以上、
生きている時点で僕らに出来るのは、可能な限りこういった
歴史的な解釈に耐えうる存在になること、平たく言えば
「死んでも忘れられない存在」
になろうと努力することなのではないか、ということです。
もちろん忘れられてもいいと思うのは人の勝手ですが、
僕らは存在を忘れられた時点で「存在しなかった」ことに
なりますから、それは今自分が生きている意味そのものを
否定していることになります。
そんな人生、虚しくないですか?
「目標を見失う」とは、本当はこういうことを言うのです。
あなたにとって「最高の死」とは、どういったものでしょう?
どこでどんな風に何をしている時に死ねれば本望でしょう?
その答えはいつも、
今を全力で生きること
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
にあります。
今を全力で生きてさえいれば、いつ死んでも後悔することは
ありません。
それは結果が出ていなくても後悔しないという意味ではなく、
結果が出ないはずがない、という意味です。
この記事の中盤辺りで
「目標があれば今やるべきことが明確になる」
ということが重要な視点だと言ったと思いますが、その理由は
最高の死という目標を考えることで、今やるべきことが明確に
なると同時に、言葉通りそれを“全力”で行えるようになるから
なのです。
そして何より、その全力で生きることができているという事実は、
常に自分にとって最高の結果なのです。
ある人にとってはそれは絵を描いているときかもしれません。
また別のある人にとっては料理を作っているときかもしれません。
人それぞれ何が最高かは異なりますが、それをやっているとき、
自分が最も自分らしくあれるとき、それが最高の人生(過程)であり、
そうやって死ねることが最高の結果なのではないでしょうか。
目標とは達成するために立てるものです。
だとしたら、死という目標が必ず達成されるようにできているのは、
自然なことなのかもしれません。
その真意は神のみぞ知るところですが、せっかくそういう風に
できてるんだから、いちいち難しいことを考えずに、そういう風に
生きればいいじゃない、ってことです。
そしたら“自然と”そういう風になりますよ、きっと(笑)
ではでは、来年もよろしくお願いします。
ありがとうございましたー!!
ペス
追伸1:補足。
便宜上、今回の話では「目標」を意味のないものとして
退けましたが、これが絶対的に正しいワケではないということを
念のためここで言っておきます。
例えば家を立てる場合には、いついつまでに家を完成させるという
「目標」がなければ話にならないですから、それは必要になります。
また会社や個人で何かしらのプロジェクトを立ち上げるには計画と
「目標」は絶対に必要になってきます。
つまり、ある種の合理的な「作業」を必要とする場合には「目標」
というものが必要になるのです。
作業とは、決められたことを決められたようにやることです。
そこには決められたことを決められたようにやらなければならない
という前提があります。
恋人に会いたくても、多少体調が悪くても、決められたことを
決められた期日通りにやらなければならない。
この程度ならまだ「目標」と同じです。
けれども、これをもっと極端に言うと、その人が死んでも
他の誰かがそれをやらなければならないということです。
この「目標」は、もはや死を超越しています。
その意味で今回話した「目標」とは違う次元の話になっているのです。
しいてカテゴリーを分けるならば、死という意味での目標が絶対的目標、
新年の抱負のような目標が表面的目標、そしてこの追伸で話した目標が
合理的(もしくは集団的)目標という感じになるでしょうか。
なんだか細かい話になりましたが、ご参考まで。
追伸2:これからの過ごし方について。
最後の最後に暑苦しい話で申し訳ありませんが、こういう
浮かれた時期だからこそ、現実的なことを真剣に考えて
欲しいと思い、今回はこんな記事を書かせてもらいました。
来年以降、これまで以上に厳しい時代がやってきます。
その傾向は今の政治・経済の動きを見れば明らかで、雇用状況は
益々悪化し、社会保障も削られ、税金は上がり、社会的弱者に
とっては非常に生き難い状況になってきている。
これは時代の流れなので、デモを起こして阻止できるような
甘いものではありません。
悪化する条件に対して必死に抵抗するのもいいですが、
そんなことより自分自身の練磨に力を注いだ方がよっぽど
マシな未来を過ごすことが出来るんじゃないかと個人的には
思います。
これは不安を煽りたくて言っているワケではなく、むしろ
“煽らなくても”可能性を述べただけでこういう雰囲気に
なってしまう辺りが、これからの時代の厳しさを表しています。
少なくとも未来を明るくする材料は今のところ1つもないと
見ていいでしょう。
だからこそ、その材料は自分で作るしかないのです。
今ならまだ間に合います。
まずは目標を見つめて、じっくり自分と向き合って下さい。
「そもそも自分が今やるべきことはコレなのか?」と日頃から
自分に問いかけて下さい。
その地盤さえ固めてしまえば、後はどうにでもなります。
自己との対話。
やって下さいね。
ども、ペスです。
いよいよ今回が今年最後のメルマガとなります。
もちろん来年以降もこのメルマガは続くのですが、
新しい表現方法はないものかと、現在模索中です。
来年は文章に加えて、できれば音声や動画なんかも
配れたらいいなー、とか思ったり思わなかったり。
優柔不断ばんざーい。
こういうテキトーな奴ではありますが(笑)これからも
気長に付き合って頂けたら嬉しいです。
んじゃ、締めのメルマガ、いってみよう!!
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目標の形而上学 〜神が与えし目標〜
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毎年この時期になると世間では「来年はどうするか」的な話題が
増えてきます。
今年はこうだったけど、来年はああしよう。
まだこうやって反省をしているならいい方だと思うのですが、
多くの人はこれすらせずに忘年会やら新年会やらで1年間の
大切な経験を水に流してしまっているような気がします。
もちろん来年も余裕で売り上げが右肩上がりで伸びていく
自信と根拠があるなら問題ないと思うのですが、一般に、
この時期にバカ騒ぎしている人というのは、僕の偏見かも
しれないですが、どうもそういう余裕のある人には
見えません。
どちらかと言えば、そんな余裕のない状況だからこそ、
その現実から目を背けるために、飲んで騒いでいるように
見えます。
僕もこの時期だけは付き合いで1,2回程度、忘年会や新年会と
呼ばれるものに参加することがあるのですが、そういう場では
(いや、そういう場でなくても)まず「まともな話」が出てきません。
これが個人的にはいつも虚しいです。
別にそれは哲学や芸術の小難しい話をしろと言っているワケではなく、
自分たちの生活に直結する話、つまり税金のこととか雇用のこととか
金融危機のことぐらいは出てきてもいいんじゃないか、ってことです。
酒を飲みながらでもいい。
バカな話を交えながらでもいい。
それでもいいから少しは現実を見つめようよ、と。
そう毎度毎度思ってしまうのです。
こうして見たくないものからとことん目を背けている割には、
みんな性懲りもなく毎年新年の抱負だけはちゃっかり(?)
立てたり立てさせられたりします。
今年こそは痩せる。
今年こそは脱サラする。
未来の自分に興味があるのは結構なことですが、いつの時代も
その抱負を達成する人というのは少ないものです。
それは僕がぐちゃぐちゃ詳細に説明するまでもなく、
今言ったことや周りの人間の様子を見れば明らかでしょう。
けれども、世間の人は飽きもせずに毎年毎年同じような抱負を
同じように立てて「今年もダメだったなー」とか同じようなことを
言いながら一生を終えていくワケです。
そんな人生もそれはそれでアリなのかもしれませんが、一生に
1回ぐらいは「目標」というものに真摯に向き合ってみては
どうだろうか、というのが僕の個人的な意見です。
こういう意見の人は僕だけではないようで、これまた世間には
目標達成法なるものをまとめた本がそれなりの数売られていたり
します。
そういう本がベストセラーになってしまうのは仕方ないとして、
ベストセラーになるほど売れた割には、周りに目標を達成できて
いる人が少ない気がするのは、僕の気のせいなのでしょうか。
それとも、もしかして僕が知らないだけで、みんな黙って成功
しちゃっているのでしょうか。
それならちょっぴり寂しいと同時に非常に喜ばしいことですが、
今はそうではないと仮定しておきます。
となると、目標を達成できる人は依然として少ないことになるワケで、
それはなぜなのかを考えたくなるのが子供心というヤツです。
どうして目標は達成できないのか。
どうすれば目標は達成できるのか。
前書きがやたら長くなりましたが、今回はそんなことを徒然と
考えていきます。
そもそも僕らはなぜ目標を立てるのでしょうか?
目標なんて立てなくても死にはしないし、そんなものなくても
普通に生きていけるのに、どうして目標が必要なのか。
ある人はこう言うかもしれません。
ゴール(目標)がなければスタートできないからだ。
しかし、僕らはゴールを決める以前からずっと走り続けています。
どこに向かっているかは明確ではないかもしれませんが、人生という
レースは既にスタートしてしまっている。
となると「ゴールがなければスタートできない」という意見は僕らの
現実と噛み合いません。
この「スタート」が「ゴール(目標)に向かい始める」という意味で
あれば、その意見は確かに正しいことになりますが、それなら
スタートよりも「方向転換」と言った方がしっくりくる気もします。
僕らの人生は生まれた瞬間がスタートであり、それ以降は死ぬまで
ずっと過程でしかないのです。
また別の人はこう言うかもしれません。
ゴール(目標)がなければどこに向かって走ればいいか分からない
からだ。
本当にそうでしょうか?
もしそうだとしたら、僕らは生まれた瞬間から何かしらの「目標」を
自分で決めておかなければならない、ということになります。
ですが、僕らは自覚的か無自覚的かは人それぞれだとしても、
常に何かに向かって走っているのですから、どこに向かっていいか
分からないというのは、僕らの行動と矛盾しています。
マラソンのゴールは走り出してから決まるのでしょうか?
僕はそんなスポーツを見たことがありません。
こうなると疑問になってくるのが「目標」そのものの存在です。
今は「なぜ目標を立てるのか?」を考えていたワケですが、
それは目標を立てることが前提にあります。
目標は立てるものだ、目標は立てなくてはいけない、でもなぜ
立てなきゃいけないんだ?というのが今考えていたことです。
しかしそれは本当に必要なのだろうか、と問うてみると新しい道が
見えてこないでしょうか?
もし僕らに「目標」が必要ないとしたら、世の中に出回っている本で
言われているようなことは、すべてウソとは言わないまでも、すべて
空虚なものになってしまいます。
先ほども言ったように、僕らは自分が自分だと認識する以前から既に
スタートを切っています。
どこに向かっているかを自覚している人は非常に少ないですが、
それでも全員がどこかに向かって走っている。
つまり、世間で言われるところの「目標」を持たずに大よその
(少なく見積もっても5〜10年以上の)人生を走ってきたワケです。
なのにどうして世間では「目標を立てるのが当たり前」みたいな
空気があるのでしょう?
これについての意見も色々あるでしょうが、代表的な意見は
こういうもののように思います。
目標がないよりも、目標がある方が今やるべきことが明確になり、
人生をより有意義にできるからだ。
仮にこれが100%と正しいとしましょう。
だとしたら、哲学も数学も物理学も生物学も考古学も歴史学も
プログラムの知識も料理の知識もすべて「ある方がより人生を
有意義に」できるはずですから、それは「目標」に限ったことでは
ないことになります。
目標が無ければそれらを学ぶことができないというのであれば
納得もいきますが、別に目標がない人でも数学がひたすら好きで
勉強している人は山ほどいるし、僕だって別に哲学的に達成したい
目標があって勉強しているワケではありません。
その他の分野についても然りです。
百歩譲って哲学や数学は「目標」に対して優位性が劣るとしても、
料理や経理や自分が関わる専門分野の知識などは、実際のところ
「目標」よりも優先されることだと思います。
より現実的なことを言うならば、新年の抱負を考えている時間を
使って、もっと他の勉強をした方が給料は上がるかもしれない
ワケです。
それを差し置いて、どうしてそれらの中で達成されもしない
「目標」だけが特別扱いされなければならないのでしょう?
そう考えていくと「目標」それ自体の必然性や優位性はどこにも
無くなってしまうのです。
「今やるべきことが明確になる」という点は重要な視点なのですが、
ここで言っている「目標」から導かれる「今やるべきこと」には実は
あまり意味がありません。
その理由は後半に譲るとして、少なくとも「ないよりあった方がいい」
というしょーもない理由は何の根拠にもなり得ないのです。
では最後に、こう問うてみることにしましょう。
目標を立てることは可能なのか?と。
上の方で言ったように、僕らの人生は死ぬまで過程でしかありません。
始まりも終わりもない経過地点。
いつもそれが僕らの人生です。
であるならば、僕らが立てられる「目標」、すなわちゴールも結局は
人生の経過地点であり、本来的な意味でゴールには成り得ないことに
なります。
1億円稼ごうが、10キロ痩せようが、脱サラに成功しようが、
どれもこれも一時的な結果であり経過地点に過ぎません。
もちろん最初から「目標」を経過地点という意味で考えているなら
それを立てることは可能ですが、その場合その「目標」はもはや
目標では無く、次の「目標」のための経過地点としか呼べなくなる
ことになります。
その次の「目標」はまた次の次の「目標」のための経過地点となり、
さらに次の次の「目標」はまた次の次の次の・・・と、これを
繰り返していくとどこまでいっても「目標」は目標としての意味を
なさなくなる。
つまり僕らは究極的な意味で目標を立てることが出来ないのです。
目標を立てる必要もなければ、立てることもできないというのは
一般的な感覚からしたら、なんと虚しいことでしょう(苦笑)
あれほど世間では当たり前に大事とされていることが、これほど
まで空虚なことだとは、恐らくほとんどの人は気付いてないと
思います。
これまたみんなが知ってて黙ってるだけなら嬉しいんですが、
それはないということにしておきます。
ただ、本題はここからです。
僕がここまで大多数の目標という言葉にカッコを付けていたことに
お気付きでしょうか?
普通に読んでいたら何とも思わないかもしれませんが、それは
強調したいから付けていたのではなく、その「目標」を目標とは
違う意味で使っていたからなのです。
「目標」とは、ここまで説明したように、立てる必要もなければ、
立てることもできない空虚な目標(経過地点)のことです。
それに対して、ここからお話したいのは本当の目標、すなわち
“死”
に関するお話です。
正月前に縁起でもないことを、と思われたかもしれませんが、
縁起も何も僕らはいつだって死と隣り合わせに生きています。
それを口にしなかったり、まともに向き合わなかったり、一時的に
無自覚だったりしているだけで、誰もがその事実を抱えている。
世間一般には、それを口に出すことは暗黙のタブーのようになって
いますが、それは倫理上マズイからではなく、なぜだか分からない
けれども(いや、分かってるんだけども)、その言葉が一気に空気を
冷やしてしまうからです。
これは実際に言ってみればすぐに分かります。
飲み会の場で
「明日死ぬかもしれないのに、何下らないことやってんだよ!」
と言えば、間違いなくその場は冷めます。
こんなのはやる前から分かっているので、わざわざやる必要は
ないですが、とにかく僕らは遥か遠くにいる未来や過去とは
必死で向き合おうとするのに、すぐ隣にいる死とは“なぜか”
まともに向き合いたがらない性質を持っているワケです。
しかしながら、その死が僕らが唯一知りうる“確実な事実”で
あることは間違いありません。
僕らはいつか絶対に死ぬ。
そのことを知らない振りをしているたくさん人はいても、本当に
知らない人はこの世にはいないと思います。
そして、死んだらそこで人生が終わる、ということもみんな
知っているはずです。
死は人生におけるゲームオーバーであり、ゲームクリアです。
ゲームであればクリアするまで何度でもリセットできますが、
人生は一度きり。
つまり人生においてはゲームクリアが同時にゲームオーバーで、
ゲームオーバーが同時にゲームクリアなのです。
通常、僕らがゲームをしているときに目標としているのは、
そのゲームをクリア(完遂)することです。
最初のボスを倒し、次のボスを倒し、ラスボスを倒す。
そもそもボスがいるかどうかはゲームの内容にもよりますが、
何にせよ基本的には「やり遂げること」がゲーム自体の目標と
なっています。
だからこそ、それを完遂できずに途中でゲームオーバーになって
しまったら、悔しいとは思わないまでも、なんとなく頂けない
気持ちになってしまうワケです。
ですが、それでも終わってしまうのが人生です。
それは思いもよらない瞬間に終わることもあれば、ある程度
想定通りに終わることもあります。
いつどこで誰がどうなるかは分かりません。
ただ今言ったように、人生において終わり(ゲームオーバー)とは
同時にゲームクリア(目標達成)なのですから、
「死」=「人生の終わり」=「ゲームオーバー」=「目標達成」
ということであり、それは
「死」=「目標達成」
ということなのです。
僕らの目標は死んだときに達成されます。
それは「死=目標達成」なのだから当然ですが、だとしたら
僕らは死そのものを目標にせざるを得ないことになります。
なぜなら、どう足掻こうとそれ以外には目標(最終地点=ゴール)に
なることができないし、それ以前に、僕らがそれを目標として望む
望まないにかかわらず、最初からそれは揺るぎない定めとして僕らの
すぐ隣に存在しているからです。
この絶対的な事実を、誰にも変えられない目標を無視しているから、
多くの人は「空虚な目標」しか立てられないし、そんな「目標」を
“立ててしまう”のです。
では「死を目標にする」とは具体的にはどういうことなのか。
死にたくて死ぬ人が少数派であることを考えると、死を目標にする
というのは何だか変な表現のような気がします。
また人間は死ぬ気さえあればいつでも死ねるワケで、その意味で
目標達成は容易だとも言えます。
そんなものを目指して何になるのか。
素朴に考えれば、そう感じるかもしれません。
それは確かにごもっともで、僕自身も何も知らなければ普通に
そういう感情を抱いてしまうと思います。
しかし自分が死んだときのことをいくつか想像してみて下さい。
どれも「死んだ」という事実は同じかもしれませんが、「死にざま」や
「死に方」は違うのではないでしょうか?
何万人の人に凄く悔やまれながら死ぬ死に方と、誰にも悲しまれずに
ただ淡々と作業として終わってしまう死に方。
どちらの死に方が僕らにとって理想的でしょうか?
もしかしたら死んでしまえばみんな同じなんだから、そんなことを
考える意味はないと言い捨てる人もいるかもしれません。
ですが、それは違うと断言できます。
死を考えることに意味がないということは、目標そのものに
意味がないということであり、目標に意味がないのであれば、
それを達成するための過程である人生にも意味がないことになります。
要は、生きることに意味は無い、と言っているのと同じなのです。
ですから、死について考えることを否定した時点で、その人は自分の
生きる意味も同時に否定していることになり、結果として、自分で
自分自身の発言そのものすらをも否定していることになるのです。
この議論に首を突っ込むとなかなか抜け出せなくなるので今は
深くは語りませんが、簡単に言っておくと、人生には「意味が無い」
のではなく、人生の意味は生きている時点では、いや、ある意味では
永遠に「未確定」なのです。
何のために生きるのか。
その答えが人生の意味なワケですが、最終的にその人の人生が
何のためになったのかを判断“できる”のは本人ではなく、
残された人たちなのですから、そこに意味が生まれるのは、
本人の人生が終わってから、つまり死んでからになります。
すなわち、生きている本人が人生の意味を知ることは原理上
絶対にできないのです。
もっと言えば、残されている人たちも入れ替わり立ち替わり
死んで交代していくワケですから、ある人の人生の意味は
歴史的にどんどん変化していくことになります。
核が人類の希望であった時代もあれば、現代のように人類の
絶望になってしまうことがあるように、モノやコトの意味は
時代と共に変わる。
これ以上行くとさすがに脱線してしまうので、ここで強引に
話を戻しますが、人生の意味が死ぬまで未確定である以上、
生きている時点で僕らに出来るのは、可能な限りこういった
歴史的な解釈に耐えうる存在になること、平たく言えば
「死んでも忘れられない存在」
になろうと努力することなのではないか、ということです。
もちろん忘れられてもいいと思うのは人の勝手ですが、
僕らは存在を忘れられた時点で「存在しなかった」ことに
なりますから、それは今自分が生きている意味そのものを
否定していることになります。
そんな人生、虚しくないですか?
「目標を見失う」とは、本当はこういうことを言うのです。
あなたにとって「最高の死」とは、どういったものでしょう?
どこでどんな風に何をしている時に死ねれば本望でしょう?
その答えはいつも、
今を全力で生きること
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
にあります。
今を全力で生きてさえいれば、いつ死んでも後悔することは
ありません。
それは結果が出ていなくても後悔しないという意味ではなく、
結果が出ないはずがない、という意味です。
この記事の中盤辺りで
「目標があれば今やるべきことが明確になる」
ということが重要な視点だと言ったと思いますが、その理由は
最高の死という目標を考えることで、今やるべきことが明確に
なると同時に、言葉通りそれを“全力”で行えるようになるから
なのです。
そして何より、その全力で生きることができているという事実は、
常に自分にとって最高の結果なのです。
ある人にとってはそれは絵を描いているときかもしれません。
また別のある人にとっては料理を作っているときかもしれません。
人それぞれ何が最高かは異なりますが、それをやっているとき、
自分が最も自分らしくあれるとき、それが最高の人生(過程)であり、
そうやって死ねることが最高の結果なのではないでしょうか。
目標とは達成するために立てるものです。
だとしたら、死という目標が必ず達成されるようにできているのは、
自然なことなのかもしれません。
その真意は神のみぞ知るところですが、せっかくそういう風に
できてるんだから、いちいち難しいことを考えずに、そういう風に
生きればいいじゃない、ってことです。
そしたら“自然と”そういう風になりますよ、きっと(笑)
ではでは、来年もよろしくお願いします。
ありがとうございましたー!!
ペス
追伸1:補足。
便宜上、今回の話では「目標」を意味のないものとして
退けましたが、これが絶対的に正しいワケではないということを
念のためここで言っておきます。
例えば家を立てる場合には、いついつまでに家を完成させるという
「目標」がなければ話にならないですから、それは必要になります。
また会社や個人で何かしらのプロジェクトを立ち上げるには計画と
「目標」は絶対に必要になってきます。
つまり、ある種の合理的な「作業」を必要とする場合には「目標」
というものが必要になるのです。
作業とは、決められたことを決められたようにやることです。
そこには決められたことを決められたようにやらなければならない
という前提があります。
恋人に会いたくても、多少体調が悪くても、決められたことを
決められた期日通りにやらなければならない。
この程度ならまだ「目標」と同じです。
けれども、これをもっと極端に言うと、その人が死んでも
他の誰かがそれをやらなければならないということです。
この「目標」は、もはや死を超越しています。
その意味で今回話した「目標」とは違う次元の話になっているのです。
しいてカテゴリーを分けるならば、死という意味での目標が絶対的目標、
新年の抱負のような目標が表面的目標、そしてこの追伸で話した目標が
合理的(もしくは集団的)目標という感じになるでしょうか。
なんだか細かい話になりましたが、ご参考まで。
追伸2:これからの過ごし方について。
最後の最後に暑苦しい話で申し訳ありませんが、こういう
浮かれた時期だからこそ、現実的なことを真剣に考えて
欲しいと思い、今回はこんな記事を書かせてもらいました。
来年以降、これまで以上に厳しい時代がやってきます。
その傾向は今の政治・経済の動きを見れば明らかで、雇用状況は
益々悪化し、社会保障も削られ、税金は上がり、社会的弱者に
とっては非常に生き難い状況になってきている。
これは時代の流れなので、デモを起こして阻止できるような
甘いものではありません。
悪化する条件に対して必死に抵抗するのもいいですが、
そんなことより自分自身の練磨に力を注いだ方がよっぽど
マシな未来を過ごすことが出来るんじゃないかと個人的には
思います。
これは不安を煽りたくて言っているワケではなく、むしろ
“煽らなくても”可能性を述べただけでこういう雰囲気に
なってしまう辺りが、これからの時代の厳しさを表しています。
少なくとも未来を明るくする材料は今のところ1つもないと
見ていいでしょう。
だからこそ、その材料は自分で作るしかないのです。
今ならまだ間に合います。
まずは目標を見つめて、じっくり自分と向き合って下さい。
「そもそも自分が今やるべきことはコレなのか?」と日頃から
自分に問いかけて下さい。
その地盤さえ固めてしまえば、後はどうにでもなります。
自己との対話。
やって下さいね。
メルマガ
Tweet 
ども、ペスです。
ブログでは随分久しぶりですねー。
前回から今までの間にメルマガではTPPの話や現代における
「正しさ」の話をしたんですが、それなりにハードな内容だったため
ブログには転載していません。
結局ネットで不特定多数に公開できる情報というのは、当たり障りの
ないものに限られちゃうんですよね、ツイッターもそうですけど。
僕の意見が正しいか間違っているかはどっちでもいいんですが、
誤解されるというのが一番困るというか、ネットでは一度誤解が
生まれると収拾がつかなくなる可能性が高いので、そういう
際どい話題は公では避けたいな、と。
もちろんメルマガでもそれは極力気を付けてはいますが、
少なくともメルマガだったら「炎上」みたいなことはないですからね。
そういう意味でメルマガだとある程度安心して書けている部分は
あります。
はたから見れば、記事を小出しにするケチな奴に見えたり
するんでしょうが、これも僕なりの考えてのことなので、
ご理解頂けると嬉しいです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
最低限の生活と最大限の生
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
僕らが生きていくには最低限の水と食料、着るもの、住むところ
及びそれらを手に入れるためのお金が必要です。
この最低限の条件が満たせれば、僕らは取り敢えず生活することが
できます。
今の日本でこの最低限の生活を維持するには、住んでいる地域にも
よりますが、多分月6〜7万円程度のお金は必要でしょう。
家賃が月3万円の四畳半の安アパートに住み、光熱費は
月3000円に抑え、すべて自炊して食費は月2万円、
年金は免除してもらい健康保険に1万円ぐらい使って、残りは雑費。
本当に最低限の生活です。
この家賃で住めるアパートがあることを考慮すると、
地域の時給相場は700円ぐらいがいいところでしょう。
時給700円で月6万円稼ぐには約85時間働く必要があります。
1日8時間働くとしたら、大体月に11日働けば余裕ですね。
仮に家にインターネットを引いていて、月々6千円多めに費用が
かかったとしても、働く日数が1日増える程度。
この労働時間は日本人なら誰もが羨むヨーロッパ諸国の
労働基準より少ないです。
これだけ労働が少なければ、休みの日に好きなだけ好きなことが
できます。
図書館に行って本を読んだり、自転車に乗ってサイクリングしたり、
散歩して花や鳥を観察したり、一人でボーっと思索にふけったり、
友人と一緒にご飯を食べたり、インターネットに熱中したり・・・。
ショッピングや外食やドライブや旅行などお金のかかる遊びは
ほぼ出来ませんが、大よそそれ以外の欲求は満たすことが
できます。
1ヶ月を30日とすると、そのうち18日、いや、働いているのも
1日8時間ですから、働く時間帯によってはほぼ毎日をこうやって
暮らすことができるワケですが、この最低限の暮らしは苦しい
生活なのでしょうか?
確かに生活費と収入のバランスは普通の感覚からすればカツカツ
かもしれません。
この状況で病気になったりしたら、生活はかなりヤバイことになる
でしょう。
ですが、もしこの生活が3ヶ月限定だったら、ということを考えてみて
下さい。
3ヶ月だけこういった生活をして、その3ヶ月のあり余る時間を使って
新たな収入源を得たとしたら、どうでしょう?
この自由な生活で3ヶ月間健康を維持するのは、それほど苦しいこと
でしょうか?
3ヶ月が無茶なら1ヶ月でも構いません。
たった1ヶ月この生活を続けて、その間に月に1万円稼げる何かを
見つけたとしたら、次の月にはその分だけ楽ができます。
その1万円を何かに投資すれば、次の月には倍以上になって
返ってくる可能性もあるし、生活費に充てれば労働時間を更に
省くこともできる。
ずっと家賃3万円のアパートでカツカツの生活をすると考えると
苦しいかもしれませんが、こう考えるとそんなにキツイことじゃない
ような気がしてきませんか?
もしかしたら「そうは言っても、1ヶ月間や3ヶ月間で新しい収入源が
見つかる可能性は低いと思う」という意見もあるかもしれません。
しかし、それは話の本質からズレています。
確かに新たな収入源が見つかる可能性は低いのかもしれませんが、
それは二の次というか、そう考えたら楽ですよね?と言っている
だけであって、この話で重要なのは最低限これで生きることができる、
ということです。
もっと言えば、生きるって何なのか、働くって何なのかってことです。
生きるためには働いてお金を稼がなくてはならない。
資本主義の仕組みには従うしかないですから、それは仕方ないと
思います。
ただ、本当に生きるだけなら、普通の人が思っているほどの収入は
必要ありません。
じゃあ普通の人はなぜ必要以上のお金を稼ぐために好きでもない
仕事を愚痴を言いながら続けるのか。
それはほとんどの場合、日頃の憂さを晴らすためです。
(それは違う、という意見もあるかもしれませんが、取り敢えず
読み進めて下さい)
日頃の仕事や人間関係で溜まったストレスを休日の趣味や飲み会で
解消するために最低限の生活費以上のお金が必要なのです。
カフェで一杯400円のコーヒーを飲んだり、ファミレスで800円の
ハンバーグを食べたり、遊園地で1日5000円のフリーパスを
買ったり、そんなの本当に必要ですか?
そんなもののために嫌なことを我慢して、したくもない仕事をして
いるのでしょうか?
家族がいれば子供の養育費や食費云々の話もあるかもしれませんが、
それだって必要なら親が勉強して自分で子供に教えればいいだけだし、
食費も自炊すればたかが知れています。
勉強する時間がないのも、教える時間がないのも、自炊する時間が
ないのも、そもそも親が働き過ぎだからじゃないでしょうか?
子供のため、家族のためと言いながら、働く以外の努力をしている
親はあまりいないような気がします。
子供を塾に通わせる親はいても、自分で勉強して子供を教育しよう
という親はまずいません。
遊園地には連れて行ってくれるのに、勉強は自分でしろ、と言う。
それで「家族のために金が必要なんだ」とか言われても、説得力が
ないと思いませんか?
子供を塾に通わせるためにお金が必要で、そのお金を稼ぐために
仕事が必要で、仕事をするために子供との時間を犠牲にして、
その犠牲にした分を遊園地で補い、遊園地と塾で使ったお金を
また仕事で稼ぎ、そして子供との時間が失われていく。
他にも色々要因はあると思いますが、ザックリ言えばこんな感じの
ことを世の中のほとんどのサラリーマンがやっています。
要するに、多くのサラリーマンは生きるために働いていると
思い込みながら、実際には
“働くために働いている”
のです。
何度も言いますが、生きるだけなら、2日に8時間程度働けば
十分やっていけます。
にもかかわらず、それだけでは物足りないような気がするのは、
その人の「生」が委縮してしまっているからです。
厳密に言えば、資本主義的な生き方以外の生き方を忘れて
しまっているからです。
自分が小さかった頃を思い出してみて下さい。
1日中楽しく遊ぶのに、お金なんて必要でしたか?
木に登ったり、虫を捕まえたり、山を探検したり、川で泳いだり、
公園や学校で鬼ごっこしたり、それだけで1日なんてあっという間
じゃなかったでしょうか?
都会で育ったとしても、テレビゲームの無い頃は何かしらお金の
かからない遊びをしていたはずです。
それが年を経るにつれてテレビゲームをするようになり、カラオケに
行くようになり、カフェでお茶するようになり、居酒屋に飲みに行く
ようになって、お金が無い頃の生活を忘れてしまった。
今やわれわれはこの消費、いや、浪費活動を「生きること」と
思い込んでいるのです。
生きるとは、究極的には息をして食べて排泄して寝て子供を産んで
育てることです。
人間の場合はそれをするために最低限のお金が必要だというだけで
あって、その他は動物と何ら変わりません。
人間もかつては物々交換によって最低限の生を維持していましたが、
それではあまりにも非効率というか、種の繁栄速度が遅れるので、
それを解決するために物と物を仲介するお金(資本)が生まれた
ワケです。
このお金の登場によって、人間は分業が可能になりました。
Aは魚を釣り、Bは野菜を育て、Cは牛を飼い、Dは家を建てる。
ABCDそれぞれが1つの偏った仕事をしても、その労働をお金に
換えることによって、各々が魚を食べたり野菜を食べたり牛乳を
飲んだり家を建ててもらったりできます。
そうして人間は住んでいる地域や自分の技能に適した
「自分ができること」だけをやって暮らしていけるようになりました。
海辺に住んでいながら、わざわざ山菜を採りに行く必要はないし、
家の建て方しか知らないのに、無理して魚を釣る必要もない。
だから取り敢えずそこで自分のできることをやってお金を稼げば
よかったワケです。
またお金は物と違って腐らないので、貯めることが可能です。
これによって、今までは余剰だった農作物や魚を漬物にしたり干物に
したりして無理に保存する必要がなくなり、お金に換えて貯蓄して
おくことが出来るようになりました。
人間なら病気や怪我もするし、農作物が不作だったり、魚が思うように
釣れなかったりすることもあります。
そんな時に貯蓄があれば、安心して仕事を休める。
毎日働かなければ生きていけない時代においては、これが貯蓄の
最初の目的だったと思います。
こうして資本主義は分業と貯蓄という2大発明を生み出したと同時に、
人間の寿命を延ばしたワケです。
この時点では“まだ”みんな生きるために働いていたと言えます。
しかし時代が進むにつれて、分業はより細分化されて、あらゆる
分野が専門化し、貯蓄は保険ではなく労働の目的となります。
キャベツだけを作る人、ニンジンだけを作る人、カキだけをとる人、
ウニだけをとる人、窓だけを作る人、瓦だけを作る人などなど、
生産はより効率化、つまり得意な人に得意なことをさせるために
1人の人間が1つのことに特化するようになりました。
その結果、より高度な技術が生まれ、生活が効率化したのは
確かです。
洗濯機や掃除機などのお陰で、人々の余分な労働は減りました。
携帯電話やパソコンのお陰で場所や時間に捕らわれなくなった
ことも事実でしょう。
ですが、本当に効率化されたのは、われわれの生活ではなく、
資本主義そのものなのです。
われわれは家事が楽になった分、余分に働くようになり、
その余分に働いて得たお金で生活を効率化させるものを買い、
そしてまた余った時間で余分に働き、余分なものを買う。
これを繰り返しているだけです。
貯蓄ができてしまったばかりに、労働効率が上がってしまった
ばかりに、人は
“余分なことを余分のために”
するようになってしまったのです。
ここで言いたいのは余分(余剰)が悪いということではありません。
そうではなく、生きることが余剰を生み出すことにすり替わって
いることに気付いて欲しいのです。
さっきも言ったように、元々お金を貯めるのは最悪の事態を
防ぐためだったはずです。
病気や怪我で働けなくなったらヤバイ。
だから余った分をお金にして貯めておこう、というのが最初の
貯蓄の目的だったと思います。
ですが今は、お金を貯めることが働く目的になってないですか?
お金を稼いで新しい携帯やゲームを買うことが目的になってない
ですか?
それだけならまだしも、その本来とは違う目的のために自身の
「生」を犠牲にしてないでしょうか?
仕事が原因で体を壊して、その体を治すためにお金が必要で、
そのお金を稼ぐために体を壊すような仕事をする。
仕事が原因で子供と遊べなくて、子供と遊ぶためにお金が必要で、
そのお金を稼ぐために子供と遊べなくなる。
仕事が原因でストレスが溜まって、ストレス解消のためにお金を
使って、そのお金を稼ぐためにストレスの溜まる仕事をする。
僕のメルマガを読んでいる人にはいないかもしれませんが、
こんな人が日本には結構います。
僕はある時、毎度辛い顔をして仕事をしている既婚の女性に
「仕事を辞めても(旦那の収入だけで)生活できるんでしょ?」
と聞いたことがあるのですが、その時彼女は「贅沢しなければ
暮らせるけど・・・」と言っていました。
僕にはこの答えはあまりに矛盾しているように聞こえたのですが、
どうやら彼女はまったくそう考えていなかったようです。
むしろ彼女は「ある程度贅沢をしなければ死ぬ」と考えている
ようでした。
これが資本主義的な生き方の典型例です。
生きるために働いているならば、生きるのに必要な分以上に働く
必要はないはずです。
家族を養うために働いているならば、家族を養える分以上に働く
必要はないはずです。
これがキレイ事なのは分かっています。
しかし、それをキレイ事と言う人に限って、最高に贅沢だと
思っているのは
「仕事をしないこと」
なのではないでしょうか?
有給を使って海外旅行をするより、豪華なレストランで
食事するより、生活は質素ながらも月の半分が休日で
家族とのんびり暮らせることの方が贅沢に見えるんじゃ
ないでしょうか?
僕はこれが唯一の贅沢だとは思いませんが、少なくとも生きるためや
家族を養うために働いている人ならば、こう感じるのが自然だと思います。
実際、みんなが憧れているヨーロッパ人はそういう生活をしてます
からね(苦笑)
彼らを羨ましいと思うならば、彼らと同じようにすれば済む話です。
それを日本の労働基準や労働時間に文句を言いつつも実行
できないのは単に僕らの意思が弱過ぎて、資本主義的な生き方を
脱却できないだけ。
もっと単純に言えば、貧乏をしたくないというか、貧乏を悪いことだと
思っているワケです、みんな。
それこそまさに資本主義に毒されいると思いませんか?
日本には清貧という言葉もあるワケですから、貧乏が悪いなんてことは
有り得ないし、慎ましくも逞しく生きているという意味では、むしろ
それは誇るべきことですらありました。
また禅の「シンプルが一番」という考え方からも分かるように、
どちらかと言えば、余計なものを持ったり、余計なことをしたりする
ことの方が、日本では悪いこととされていたのです。
つまり最低限の生活こそが、最善の生き方だったということです。
だとするならば、現代人の「生を犠牲にして余分なものを蓄える」
という生き方は、日本人として文化的に最も卑しい生き方なのでは
ないでしょうか。
僕も一般人ですから、物やお金が欲しくなる気持ちは分かります。
ですが、そういう時は一度立ち止まって考えてみて下さい。
「自分はこんなもののために人生を犠牲にしているのか?」と。
缶コーヒーを買うとき、服を買うとき、カラオケに入るとき、
ドライブをするとき・・・。
その分だけ、あなたの生は削られているのだということを。
ありがとうございました。
ペス
追伸:メルマガ登録はこちらからどうぞ。
ども、ペスです。
ブログでは随分久しぶりですねー。
前回から今までの間にメルマガではTPPの話や現代における
「正しさ」の話をしたんですが、それなりにハードな内容だったため
ブログには転載していません。
結局ネットで不特定多数に公開できる情報というのは、当たり障りの
ないものに限られちゃうんですよね、ツイッターもそうですけど。
僕の意見が正しいか間違っているかはどっちでもいいんですが、
誤解されるというのが一番困るというか、ネットでは一度誤解が
生まれると収拾がつかなくなる可能性が高いので、そういう
際どい話題は公では避けたいな、と。
もちろんメルマガでもそれは極力気を付けてはいますが、
少なくともメルマガだったら「炎上」みたいなことはないですからね。
そういう意味でメルマガだとある程度安心して書けている部分は
あります。
はたから見れば、記事を小出しにするケチな奴に見えたり
するんでしょうが、これも僕なりの考えてのことなので、
ご理解頂けると嬉しいです。
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最低限の生活と最大限の生
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
僕らが生きていくには最低限の水と食料、着るもの、住むところ
及びそれらを手に入れるためのお金が必要です。
この最低限の条件が満たせれば、僕らは取り敢えず生活することが
できます。
今の日本でこの最低限の生活を維持するには、住んでいる地域にも
よりますが、多分月6〜7万円程度のお金は必要でしょう。
家賃が月3万円の四畳半の安アパートに住み、光熱費は
月3000円に抑え、すべて自炊して食費は月2万円、
年金は免除してもらい健康保険に1万円ぐらい使って、残りは雑費。
本当に最低限の生活です。
この家賃で住めるアパートがあることを考慮すると、
地域の時給相場は700円ぐらいがいいところでしょう。
時給700円で月6万円稼ぐには約85時間働く必要があります。
1日8時間働くとしたら、大体月に11日働けば余裕ですね。
仮に家にインターネットを引いていて、月々6千円多めに費用が
かかったとしても、働く日数が1日増える程度。
この労働時間は日本人なら誰もが羨むヨーロッパ諸国の
労働基準より少ないです。
これだけ労働が少なければ、休みの日に好きなだけ好きなことが
できます。
図書館に行って本を読んだり、自転車に乗ってサイクリングしたり、
散歩して花や鳥を観察したり、一人でボーっと思索にふけったり、
友人と一緒にご飯を食べたり、インターネットに熱中したり・・・。
ショッピングや外食やドライブや旅行などお金のかかる遊びは
ほぼ出来ませんが、大よそそれ以外の欲求は満たすことが
できます。
1ヶ月を30日とすると、そのうち18日、いや、働いているのも
1日8時間ですから、働く時間帯によってはほぼ毎日をこうやって
暮らすことができるワケですが、この最低限の暮らしは苦しい
生活なのでしょうか?
確かに生活費と収入のバランスは普通の感覚からすればカツカツ
かもしれません。
この状況で病気になったりしたら、生活はかなりヤバイことになる
でしょう。
ですが、もしこの生活が3ヶ月限定だったら、ということを考えてみて
下さい。
3ヶ月だけこういった生活をして、その3ヶ月のあり余る時間を使って
新たな収入源を得たとしたら、どうでしょう?
この自由な生活で3ヶ月間健康を維持するのは、それほど苦しいこと
でしょうか?
3ヶ月が無茶なら1ヶ月でも構いません。
たった1ヶ月この生活を続けて、その間に月に1万円稼げる何かを
見つけたとしたら、次の月にはその分だけ楽ができます。
その1万円を何かに投資すれば、次の月には倍以上になって
返ってくる可能性もあるし、生活費に充てれば労働時間を更に
省くこともできる。
ずっと家賃3万円のアパートでカツカツの生活をすると考えると
苦しいかもしれませんが、こう考えるとそんなにキツイことじゃない
ような気がしてきませんか?
もしかしたら「そうは言っても、1ヶ月間や3ヶ月間で新しい収入源が
見つかる可能性は低いと思う」という意見もあるかもしれません。
しかし、それは話の本質からズレています。
確かに新たな収入源が見つかる可能性は低いのかもしれませんが、
それは二の次というか、そう考えたら楽ですよね?と言っている
だけであって、この話で重要なのは最低限これで生きることができる、
ということです。
もっと言えば、生きるって何なのか、働くって何なのかってことです。
生きるためには働いてお金を稼がなくてはならない。
資本主義の仕組みには従うしかないですから、それは仕方ないと
思います。
ただ、本当に生きるだけなら、普通の人が思っているほどの収入は
必要ありません。
じゃあ普通の人はなぜ必要以上のお金を稼ぐために好きでもない
仕事を愚痴を言いながら続けるのか。
それはほとんどの場合、日頃の憂さを晴らすためです。
(それは違う、という意見もあるかもしれませんが、取り敢えず
読み進めて下さい)
日頃の仕事や人間関係で溜まったストレスを休日の趣味や飲み会で
解消するために最低限の生活費以上のお金が必要なのです。
カフェで一杯400円のコーヒーを飲んだり、ファミレスで800円の
ハンバーグを食べたり、遊園地で1日5000円のフリーパスを
買ったり、そんなの本当に必要ですか?
そんなもののために嫌なことを我慢して、したくもない仕事をして
いるのでしょうか?
家族がいれば子供の養育費や食費云々の話もあるかもしれませんが、
それだって必要なら親が勉強して自分で子供に教えればいいだけだし、
食費も自炊すればたかが知れています。
勉強する時間がないのも、教える時間がないのも、自炊する時間が
ないのも、そもそも親が働き過ぎだからじゃないでしょうか?
子供のため、家族のためと言いながら、働く以外の努力をしている
親はあまりいないような気がします。
子供を塾に通わせる親はいても、自分で勉強して子供を教育しよう
という親はまずいません。
遊園地には連れて行ってくれるのに、勉強は自分でしろ、と言う。
それで「家族のために金が必要なんだ」とか言われても、説得力が
ないと思いませんか?
子供を塾に通わせるためにお金が必要で、そのお金を稼ぐために
仕事が必要で、仕事をするために子供との時間を犠牲にして、
その犠牲にした分を遊園地で補い、遊園地と塾で使ったお金を
また仕事で稼ぎ、そして子供との時間が失われていく。
他にも色々要因はあると思いますが、ザックリ言えばこんな感じの
ことを世の中のほとんどのサラリーマンがやっています。
要するに、多くのサラリーマンは生きるために働いていると
思い込みながら、実際には
“働くために働いている”
のです。
何度も言いますが、生きるだけなら、2日に8時間程度働けば
十分やっていけます。
にもかかわらず、それだけでは物足りないような気がするのは、
その人の「生」が委縮してしまっているからです。
厳密に言えば、資本主義的な生き方以外の生き方を忘れて
しまっているからです。
自分が小さかった頃を思い出してみて下さい。
1日中楽しく遊ぶのに、お金なんて必要でしたか?
木に登ったり、虫を捕まえたり、山を探検したり、川で泳いだり、
公園や学校で鬼ごっこしたり、それだけで1日なんてあっという間
じゃなかったでしょうか?
都会で育ったとしても、テレビゲームの無い頃は何かしらお金の
かからない遊びをしていたはずです。
それが年を経るにつれてテレビゲームをするようになり、カラオケに
行くようになり、カフェでお茶するようになり、居酒屋に飲みに行く
ようになって、お金が無い頃の生活を忘れてしまった。
今やわれわれはこの消費、いや、浪費活動を「生きること」と
思い込んでいるのです。
生きるとは、究極的には息をして食べて排泄して寝て子供を産んで
育てることです。
人間の場合はそれをするために最低限のお金が必要だというだけで
あって、その他は動物と何ら変わりません。
人間もかつては物々交換によって最低限の生を維持していましたが、
それではあまりにも非効率というか、種の繁栄速度が遅れるので、
それを解決するために物と物を仲介するお金(資本)が生まれた
ワケです。
このお金の登場によって、人間は分業が可能になりました。
Aは魚を釣り、Bは野菜を育て、Cは牛を飼い、Dは家を建てる。
ABCDそれぞれが1つの偏った仕事をしても、その労働をお金に
換えることによって、各々が魚を食べたり野菜を食べたり牛乳を
飲んだり家を建ててもらったりできます。
そうして人間は住んでいる地域や自分の技能に適した
「自分ができること」だけをやって暮らしていけるようになりました。
海辺に住んでいながら、わざわざ山菜を採りに行く必要はないし、
家の建て方しか知らないのに、無理して魚を釣る必要もない。
だから取り敢えずそこで自分のできることをやってお金を稼げば
よかったワケです。
またお金は物と違って腐らないので、貯めることが可能です。
これによって、今までは余剰だった農作物や魚を漬物にしたり干物に
したりして無理に保存する必要がなくなり、お金に換えて貯蓄して
おくことが出来るようになりました。
人間なら病気や怪我もするし、農作物が不作だったり、魚が思うように
釣れなかったりすることもあります。
そんな時に貯蓄があれば、安心して仕事を休める。
毎日働かなければ生きていけない時代においては、これが貯蓄の
最初の目的だったと思います。
こうして資本主義は分業と貯蓄という2大発明を生み出したと同時に、
人間の寿命を延ばしたワケです。
この時点では“まだ”みんな生きるために働いていたと言えます。
しかし時代が進むにつれて、分業はより細分化されて、あらゆる
分野が専門化し、貯蓄は保険ではなく労働の目的となります。
キャベツだけを作る人、ニンジンだけを作る人、カキだけをとる人、
ウニだけをとる人、窓だけを作る人、瓦だけを作る人などなど、
生産はより効率化、つまり得意な人に得意なことをさせるために
1人の人間が1つのことに特化するようになりました。
その結果、より高度な技術が生まれ、生活が効率化したのは
確かです。
洗濯機や掃除機などのお陰で、人々の余分な労働は減りました。
携帯電話やパソコンのお陰で場所や時間に捕らわれなくなった
ことも事実でしょう。
ですが、本当に効率化されたのは、われわれの生活ではなく、
資本主義そのものなのです。
われわれは家事が楽になった分、余分に働くようになり、
その余分に働いて得たお金で生活を効率化させるものを買い、
そしてまた余った時間で余分に働き、余分なものを買う。
これを繰り返しているだけです。
貯蓄ができてしまったばかりに、労働効率が上がってしまった
ばかりに、人は
“余分なことを余分のために”
するようになってしまったのです。
ここで言いたいのは余分(余剰)が悪いということではありません。
そうではなく、生きることが余剰を生み出すことにすり替わって
いることに気付いて欲しいのです。
さっきも言ったように、元々お金を貯めるのは最悪の事態を
防ぐためだったはずです。
病気や怪我で働けなくなったらヤバイ。
だから余った分をお金にして貯めておこう、というのが最初の
貯蓄の目的だったと思います。
ですが今は、お金を貯めることが働く目的になってないですか?
お金を稼いで新しい携帯やゲームを買うことが目的になってない
ですか?
それだけならまだしも、その本来とは違う目的のために自身の
「生」を犠牲にしてないでしょうか?
仕事が原因で体を壊して、その体を治すためにお金が必要で、
そのお金を稼ぐために体を壊すような仕事をする。
仕事が原因で子供と遊べなくて、子供と遊ぶためにお金が必要で、
そのお金を稼ぐために子供と遊べなくなる。
仕事が原因でストレスが溜まって、ストレス解消のためにお金を
使って、そのお金を稼ぐためにストレスの溜まる仕事をする。
僕のメルマガを読んでいる人にはいないかもしれませんが、
こんな人が日本には結構います。
僕はある時、毎度辛い顔をして仕事をしている既婚の女性に
「仕事を辞めても(旦那の収入だけで)生活できるんでしょ?」
と聞いたことがあるのですが、その時彼女は「贅沢しなければ
暮らせるけど・・・」と言っていました。
僕にはこの答えはあまりに矛盾しているように聞こえたのですが、
どうやら彼女はまったくそう考えていなかったようです。
むしろ彼女は「ある程度贅沢をしなければ死ぬ」と考えている
ようでした。
これが資本主義的な生き方の典型例です。
生きるために働いているならば、生きるのに必要な分以上に働く
必要はないはずです。
家族を養うために働いているならば、家族を養える分以上に働く
必要はないはずです。
これがキレイ事なのは分かっています。
しかし、それをキレイ事と言う人に限って、最高に贅沢だと
思っているのは
「仕事をしないこと」
なのではないでしょうか?
有給を使って海外旅行をするより、豪華なレストランで
食事するより、生活は質素ながらも月の半分が休日で
家族とのんびり暮らせることの方が贅沢に見えるんじゃ
ないでしょうか?
僕はこれが唯一の贅沢だとは思いませんが、少なくとも生きるためや
家族を養うために働いている人ならば、こう感じるのが自然だと思います。
実際、みんなが憧れているヨーロッパ人はそういう生活をしてます
からね(苦笑)
彼らを羨ましいと思うならば、彼らと同じようにすれば済む話です。
それを日本の労働基準や労働時間に文句を言いつつも実行
できないのは単に僕らの意思が弱過ぎて、資本主義的な生き方を
脱却できないだけ。
もっと単純に言えば、貧乏をしたくないというか、貧乏を悪いことだと
思っているワケです、みんな。
それこそまさに資本主義に毒されいると思いませんか?
日本には清貧という言葉もあるワケですから、貧乏が悪いなんてことは
有り得ないし、慎ましくも逞しく生きているという意味では、むしろ
それは誇るべきことですらありました。
また禅の「シンプルが一番」という考え方からも分かるように、
どちらかと言えば、余計なものを持ったり、余計なことをしたりする
ことの方が、日本では悪いこととされていたのです。
つまり最低限の生活こそが、最善の生き方だったということです。
だとするならば、現代人の「生を犠牲にして余分なものを蓄える」
という生き方は、日本人として文化的に最も卑しい生き方なのでは
ないでしょうか。
僕も一般人ですから、物やお金が欲しくなる気持ちは分かります。
ですが、そういう時は一度立ち止まって考えてみて下さい。
「自分はこんなもののために人生を犠牲にしているのか?」と。
缶コーヒーを買うとき、服を買うとき、カラオケに入るとき、
ドライブをするとき・・・。
その分だけ、あなたの生は削られているのだということを。
ありがとうございました。
ペス
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